k-h-musume.bsky.social
昔語りの好きな媼でございます。縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安中期の日本と東アジア史を主に、よしなしごとを書き連ねております。乳がんサバイバー。人工レンズの見え方と格闘中。 ポストの引用はおやめください。Please do not quote my post. X、note、同じユーザーネームです。 https://note.com/k_h_musume
👤 Joined on 08 February 2024
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@k-h-musume.bsky.social2026年10月16日 #考古学のおやつ 1/1 栃木県下野市・下野薬師寺跡(しもつけやくしじあと)で、金銅の基礎工事が緻密且大規模だったことが判明。10/17現地説明会。 [下野新聞] www.shimotsuke.co.jp/articles/-/1...
Show Post西側の問題は民主主義が行き詰まっていることではなく、民主主義に見せかけた権威主義的体制が罷り通っていることだと思う。
Show Postでもその自己責任とやらは自分だけはなぜか例外なんですよねというところまでわかります😩
Show Post→挹婁/粛慎に対し、「東夷伝」(前文以外)とそのほかの『三国志』では、見方が大きく違います。 なお、『後漢書』や『晋書』でも基本的に粛慎と表記しています。『後漢書』本文で挹婁に触れるのは「東夷伝」挹婁条だけ。『晋書』では「東夷伝」に粛慎氏条が設けられ、別名が挹婁だとしています。→ 『三国志』魏書「東夷伝」が、ほかの部分とは別の人によって書かれた原史料のまるうつしではないかという疑いが深まります。 ▶白井克也2026「仲達の窓はだれがなぜ閉じたか―三国志魏書東夷伝の史料的制約―」『卑弥呼の鏡―三角縁神獣鏡がヤマト王権をつくった―』新泉社
Show Post→魏の初代皇帝・曹丕(文帝)が亡くなったとき、皇族の曹植がのべた誄(弔辞)の中で、粛慎の朝貢に触れています(「文帝紀」の注に引用された『魏氏春秋』)。これに先立つ漢代には粛慎が朝貢した記録がないので、数百年ぶりの朝貢です。そして、毋丘倹たちが挹婁に到達するよりも前の話です。 『三国志』「明帝紀」で236年に、「陳留王紀」で262年に、粛慎が楛矢を献上した記事があります。「文帝紀」に引用された『魏氏春秋』や、「明帝紀」、「陳留王紀」では、粛慎は魏に朝貢する現実の存在として扱われ、決して挹婁とは呼ばれません。 そして、これらの朝貢に「東夷伝」は触れません。→
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